LOGIN沙耶から「着いた」と連絡が来たのは、午後七時を少し過ぎた頃だった。
『由香の家に着きました。荷物も全部運び終わったから心配しないで』
遼一はその短いメッセージを、リビングのソファに座ったまま二度読んだ。返事は『分かった』とだけ打った。そこへ「ゆっくり休め」と付け足すか迷い、結局やめた。今さら夫らしいことを言えば、沙耶にどう受け取られるのか自分でも分からなかったからだ。
送信すると、部屋はすぐに静かになった。これまでも沙耶が実家へ泊まりに行くことくらいはあったし、友人と旅行へ出かけたこともある。そのたびに遼一は、一人の夜をむしろ気楽だと感じていた。テレビをつけっぱなしにしても何も言われず、帰宅時間を知らせる必要もなく、夕飯を食べて帰るのかどうか考えなくてもいい。
ところが今夜は、同じ「一人」でも妙に落ち着かなかった。
理由は分かっている。沙耶は数日後に戻ってくるために出かけたのではない。離婚するために、この家を出ていった。その事実が、リビングのあちこちに残された空白から嫌でも伝わってくる。
いつも沙耶のカーディガンが掛かっていた椅子には何もない。読みかけの本もなく、キッチンカウンターに置かれていた買い物用の小さなバッグも消えている。洗面所へ行けば、化粧品の半分がなくなっていた。たった一日で家が別の場所になったように見えるのが、遼一には気に入らなかった。
「……大げさなんだよ」
誰に言うでもなく呟いた。
離婚はする。それは自分が望んだことだ。沙耶だって納得したのだから、これから少しずつ新しい生活へ変えていけばいい。莉奈と一緒になれば、この家だってまた生活の場所になる。そう考えれば何もおかしくない。
遼一は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。中には、沙耶が買った食材がまだかなり残っている。卵、牛乳、野菜、納豆、ヨーグルト。作り置きらしい容器もいくつか並んでいた。
ラベルには沙耶の字で、『きんぴら 木曜まで』『鶏肉 下味済み』と書かれている。
遼一はその文字を見て、冷蔵庫を閉めた。なぜか食べる気になれなかった。
スマートフォンを手にし、莉奈へ連絡する。
『沙耶、今日家を出た』
すぐ既読がつき、そのまま電話がかかってきた。
「もしもし」
『本当に?』
莉奈の声は明るかった。その明るさに、遼一はほんの少しだけ引っかかった。
当然だ。莉奈はずっと、沙耶との関係が整理されることを望んでいた。喜ぶのはおかしくない。
「うん。友達のところに行った」
『じゃあ……これから遼一、一人なの?』
「まあ、しばらくは」
『行こうか?』
遼一は反射的にリビングを見回した。二日前、莉奈を初めてここへ連れてきた。沙耶のスリッパを履いた莉奈と、ダイニングテーブルを挟んで向き合う沙耶。妻と愛人が同時に座っていたあの光景が、生々しく蘇った。
「いや、今日はいい」
電話の向こうで短い沈黙があった。
『……どうして?』
「沙耶が出ていったばかりだから」
『もう離婚するんでしょう?』
「そうだけど」
『だったら、別にいいんじゃない?』
確かに理屈ではそうなのかもしれない。それでも遼一は頷けなかった。
沙耶はこの家を「まだ自分の家でもある」と言った。法的にもその通りなのだろう。何より、沙耶が出ていった数時間後に莉奈を連れ込むことには、自分でも説明できない抵抗があった。
「今日は一人でいるよ。仕事も残ってるし」
莉奈の声が少し冷える。
『分かった』
「怒った?」
『怒ってない。ただ、少し寂しいだけ』
「明日、会社で話そう」
『うん』
通話を切ると、遼一はスマートフォンを見つめた。
望んでいたはずだった。沙耶と離婚して、莉奈と一緒になる。邪魔するものは少しずつなくなっている。それなのに、なぜ自分はこんなにすっきりしないのだろう。
考えるのをやめ、遼一は風呂へ入った。
翌朝、目覚ましが鳴ったのは七時だった。
遼一は止め、そのまま二度寝しかけた。いつもなら七時十分頃、寝室の扉が開く。
「遼一、そろそろ起きないと遅れるよ」
沙耶の声がする。一度で起きなければ十分後にもう一度、それでも起きなければカーテンを開けられる。
今朝は誰も来なかった。
次に目を開けたとき、時計は七時四十三分を示していた。
「まずい」
飛び起きる。八時半には会社へ着きたい。
シャワーを浴び、ワイシャツを引っ張り出したところで、袖口に薄い汚れが残っていることに気づいた。クリーニングに出す予定だったものらしい。別のシャツを探したが、こちらはアイロンがかかっていない。三枚目でようやく着られるものを見つけた。
ネクタイを締めながらキッチンへ行き、コーヒーメーカーを動かす。昨日一度使ったから、もう迷わない。
パンはどこだったか。
棚を開ける。ない。冷蔵庫も探すが、やはりない。
「買ってないのか」
口にしてから、自分で気づいた。
買う人がいなくなったのだ。
正確には、自分が買っていないだけだ。
遼一はコーヒーだけ飲み、家を出た。エレベーターの中で腹が鳴る。コンビニへ寄ろうと思ったが、時間がない。会社に着いたら何か買わせればいい。
そう考え、車へ乗り込んだ。
神崎ライフスタイル本社に到着したのは、午前八時五十六分だった。秘書の飯田が少し意外そうな顔をする。
「おはようございます、社長」
「おはよう。九時半から営業会議だよな」
「はい。その前に八時四十五分から藤城部長との打ち合わせ予定でしたが、十五分後ろへずらしました」
遼一の足が止まった。
「八時四十五分?」
「昨日、スケジュールにもお送りしています」
「ああ……悪い」
遼一は眉間を押さえた。普段は遅刻などほとんどしない。昨日の夜、予定を確認した記憶はある。だが沙耶が家を出ていったあと、何をしていたのか自分でも曖昧だった。
社長室へ入り、鞄を置く。机の上には、今日使う資料が並べられている。それを見て、ようやく仕事の頭へ切り替わった。
家の問題と会社は別だ。少なくともここでは、自分は神崎ライフスタイルの社長である。沙耶がいなくても会社は回る。当然だ。これまで会社を経営してきたのは自分なのだから。
午前中の会議は問題なく終わった。遼一は新商品の発売スケジュールについていくつか修正を指示し、広告費の追加承認を出した。営業部から報告された数字にもその場で問題点を指摘した。
仕事をしている間は、余計なことを考えずに済んだ。
昼前、秘書の飯田が社長室へ入ってくる。
「社長、十一時半です」
「分かってる。次は?」
「十二時から東央百貨店の河野専務との会食です。車は十一時四十分に地下へ回してあります」
「ああ」
遼一は立ち上がりかけた。
そこで飯田が続けた。
「それと、河野専務ご夫妻へのお祝いの品ですが、今年はどういたしましょうか」
遼一の動きが止まる。
「祝い?」
飯田も一瞬止まった。
「はい」
「何の?」
ほんの数秒。それだけで、秘書の表情が僅かに変わった。
「本日、河野専務ご夫妻の結婚記念日です」
遼一は何も答えられなかった。
河野隆臣。東央百貨店専務。神崎ライフスタイルにとって最大級の取引先の一つだ。
遼一が営業時代から世話になっている人物で、現社長に就任できた背景にも河野からの強い推薦があった。夫婦仲が良いことでも知られている。毎年、結婚記念日前後に会食をするのが恒例だった。
去年は確か、花と――。
そこまで考えて気づいた。
去年、何を贈ったのか自分は知らない。
いや、正確には受け取った礼の電話は覚えている。
『奥さんにもよろしく伝えてくれ。うちの家内が大喜びしていた』
そう言われたとき、遼一は『ありがとうございます。伝えておきます』と答えた。それだけだった。
何を選んだのか。どこから手配したのか。いくらだったのか。何一つ知らない。
沙耶がやっていたからだ。
「飯田、去年は何を贈った?」
「申し訳ありません。社内手配ではありませんでしたので、私のほうでは把握しておりません」
当然だった。
遼一は机の上のスマートフォンを見る。
沙耶へ電話すれば、一分で分かるだろう。毎年の記録を残しているかもしれない。河野夫人が何を好きなのかも知っているはずだ。
以前、沙耶が何か話していた気もする。花は百合が苦手だとか、甘いものは何だったか。
全く思い出せない。
「去年は奥様がご手配なさったのでしょうか」
飯田に尋ねられ、遼一は顔を上げた。
「たぶんな」
「では、ご確認されますか?」
遼一は答えなかった。
スマートフォンを取る。連絡先の一番上に近い場所に、まだ「沙耶」がある。
昨日までなら迷わず押していた。
『今日、河野さんの記念日だったよな。去年何贈った?』
それだけで済む話だった。
沙耶なら、『忘れたの? 今年で三十五周年でしょう。去年はご夫婦で好きだとおっしゃっていた工房のグラスよ』などと答える。そしておそらく、そのまま今年の候補まで提案してくれる。
遼一は発信ボタンへ指を近づけたが、止めた。
昨日、沙耶は家を出た。離婚の準備をするために。その妻へ「取引先への贈り物を教えてくれ」と電話するのは、いくら何でもおかしい。
遼一はスマートフォンを机へ戻した。
「いや。こっちでやる」
飯田が頷く。
「かしこまりました。では百貨店外商へ問い合わせますか?」
「そうしてくれ。ご夫婦向けで、今日中に用意できるもの。安っぽいのは駄目だ」
「承知しました」
飯田が退出する。
遼一は椅子へ座り直した。仕事には関係ない。そう思っていた。
沙耶がやっていたのは、家庭のことだ。取引先への贈答も、社長夫人としての付き合いの一つ。自分の仕事そのものではない。
それなのに、なぜ会社の机に座ってまで彼女がいない影響が出るのか、納得がいかなかった。
正午。
遼一は河野との会食へ向かった。
都内の老舗料亭。個室へ通されると、河野はすでに到着していた。
六十代半ばの男で、普段から笑顔の多い人物だが、商談では驚くほど細かい。
「神崎君、久しぶりだな」
「ご無沙汰しております。お待たせして申し訳ありません」
「いや、私も来たばかりだよ」
挨拶を交わし、席につく。
料理が運ばれ、最初は新商品の話になった。そこは問題なかった。遼一は数字を説明し、河野も興味深そうに質問する。
食事が半ばまで進んだところで、河野が笑った。
「ところで、今日は家内に何も届いていないから、今年は神崎夫妻にもとうとう忘れられたかと朝からからかわれたよ」
遼一の箸が止まった。
笑い話だった。河野は怒っていない。だからこそ、余計に困った。
「申し訳ありません。実は手配が少し遅れておりまして」
「冗談だよ。毎年気を遣わせて悪いくらいだ」
河野はそう言ってから、少し首を傾げた。
「奥さんは元気かね?」
遼一の胸が小さく詰まる。
「……ええ」
反射的に答えた。
嘘ではない。少なくとも病気ではない。
ただ、昨日家を出ていった。
「そうか。それならよかった。うちの家内が、神崎君より奥さんと会いたがっていてね」
「沙耶と?」
「以前、会食で一度ゆっくり話しただろう。妻の膝の具合まで覚えていてくれて、旅行へ行くとき歩きやすい宿をいくつか教えてくれたらしい」
遼一は知らなかった。
そんな話をしたことすら。
「それで去年の記念日に、旅行先で使える軽いグラスを選んでくれただろう。あれも家内がえらく気に入っている。君は仕事ばかりだから、いい奥さんに助けられているな」
冗談めかした言葉だった。
普段なら、「頭が上がりません」と笑って返していた。何度もそう答えてきた。
遼一は今、その決まり文句を言えなかった。
いい奥さんに助けられている。
昨日までなら、何の引っかかりもなく聞き流していた言葉が、今はひどく重かった。
河野が訝しそうに見る。
「どうした?」
「いえ。何でもありません」
遼一は笑顔を作った。
「妻には、いつも助けられています」
口にしてから、自分で気づく。
現在形だった。
助けられていました、ではない。まだ妻だからだろうか。それとも、自分の中で何かが追いついていないだけなのか。
会食を終え、会社へ戻る車の中で、遼一はスマートフォンを開いた。
沙耶とのメッセージ履歴を遡る。
『今日は遅くなる。夕飯いらない』
『了解。お疲れさま』
『明日の朝、七時半に出る』
『分かった。六時半には朝ご飯できるようにしておくね』
そんなやり取りが延々と続いていた。
さらに遡ると、数か月前に沙耶から一枚の写真が送られている。
綺麗に包装された箱。
『河野専務ご夫妻、来週結婚記念日だから今年はこれにしておいたよ。前に奥様が薄いグラスは手が滑って怖いって話してたから、持ちやすいものにした。カードだけ遼一が一言書いてね』
遼一は画面を見たまま動けなくなった。
自分の返事は、『了解。ありがとう』のたったそれだけ。
その記憶すら薄かった。
毎年勝手に届くものだと思っていたわけではない。沙耶がやっていることは知っていた。
ただ、その「やっている」の中に、どれだけの手間があるのか考えたことがなかった。
相手の好みを覚える。記念日を覚える。前年と重ならないものを選ぶ。届く日を逆算して注文する。カードを用意する。
遼一は最後に署名するだけ。
それで河野から礼を言われるのは、自分だった。
「社長」
運転手に呼ばれ、遼一は顔を上げた。
「本社に到着しました」
「ああ」
車を降りる。
会社へ戻ると、飯田がすぐに寄ってきた。
「社長、河野専務ご夫妻へのお品ですが、外商から候補が上がっています」
タブレットを見せられる。
高級ワイン、ブランド物のペアグラス、老舗店の菓子。どれも悪くないし、値段も十分だった。
それなのに遼一には、どれを選べばいいのか分からない。
「社長?」
「……ペアグラスにしよう」
「こちらでしょうか」
「ああ」
「カードはどうなさいますか?」
カード。
去年も沙耶にそう言われていた。自分で一言書け、と。
何を書いたのだろう。おそらく沙耶が考えた文を写した。
遼一は少し考え、メモ用紙を引き寄せた。
『ご結婚記念日、誠におめでとうございます』
そこで手が止まった。
仕事の提案書なら、いくらでも言葉が出る。数十億の取引先を相手にしても話せる。
それなのに、長く付き合っている相手への祝いの言葉が続かない。
遼一はペンを置いた。
「飯田、一般的な文面でいい。整えておいて」
「承知しました」
秘書が去る。
遼一は椅子の背にもたれた。胸の奥が、妙にざらついていた。
何でも自分でできる。昨日までそう思っていた。家事くらい覚えればいい。朝食などコンビニで済ませればいい。贈り物なら金を払えば買える。沙耶がいなくなったところで、生活も仕事も本質的には変わらない。
そう思っていた。
だが実際に消えていくのは、料理や洗濯だけではなかった。
遼一が覚えなくて済んでいたもの。気づかなくて済んでいたもの。考えなくて済んでいたもの。誰かの誕生日、記念日、好き嫌い、病気、家族関係、以前交わした何気ない会話。
その膨大な部分を、沙耶が覚えていた。
そして遼一は、それを「妻だから」で片づけていた。
スマートフォンを手に取る。
沙耶へ電話しようとした。
今度は仕事を頼むためではない。何と言えばいいのかは分からない。
『今日、河野さんに会った』
それだけでもいい。
けれど、その先はどうする。
『君が毎年贈り物を選んでいたことを、今さら思い出した』
そんなことを言って何になる。
感謝するには遅い。謝罪するにしても、今さら妻として続けてほしいわけではないのなら、かえって残酷ではないか。
遼一は結局、電話をかけなかった。
代わりに仕事用のパソコンを開く。午後の予定が並んでいる。会議、取材、取締役との打ち合わせ。
見慣れた一日だった。
仕事ならできる。ここだけは、自分の領域だ。
そう思っていた矢先、再び飯田がノックした。
「社長、申し訳ありません。確認させてください」
「何?」
「来週の創業家懇親会についてですが、奥様はご出席でよろしいでしょうか。すでに神崎ご夫妻で席が用意されています」
遼一は答えられなかった。
創業家懇親会。父や母だけでなく、主要株主や古くから付き合いのある経営者夫妻が集まる。
これまで沙耶が毎年同行してきた。
何を着るのか。誰へ挨拶するのか。誰と誰の仲が悪いのか。
遼一はほとんど考えたことがない。
会場に行けば、沙耶が自然に横にいて、必要な人には先に気づいてくれた。
飯田が返事を待っている。
「……妻は出ない」
初めて、そう口にした。
飯田が一瞬だけ目を見開いた。
「承知しました。では、お一人でご出席ということで」
「ああ」
飯田が退出する。
扉が閉まったあと、遼一は無意識に左手へ目をやった。
結婚指輪がある。
沙耶は外した。
自分はまだつけている。外す理由がなかったから。それだけのはずだった。
遼一は指輪へ指をかけ、少し回してみた。しかし外さなかった。
「……何やってんだ、俺」
低く呟く。
離婚を望んだのは自分だ。沙耶ではない。妻のいない人生を選んだのも自分だ。
それなら、この程度のことにいちいち戸惑っていてどうする。
遼一は机へ戻った。
その日の仕事は、予定どおり最後までこなした。会社が止まったわけではない。取引も成立した。会議も終わった。売上が突然落ちたわけでもない。
だから遼一はまだ、本当の意味では理解していなかった。
ただ、夜になって一人で家へ戻り、真っ暗な玄関へ入ったとき、昨日まで聞こえていた「おかえり」がないことに足を止めた。
電気をつける。
静かなリビング。テーブルの上には何もない。
冷蔵庫を開けると、昨夜と同じ食材が残っている。遼一はしばらく中を眺めたあと、扉を閉めた。
外で食べればいい。料理などできなくても困らない。スマートフォンで出前を頼めば十分だ。
そう思ってアプリを開いたところで、河野の言葉がまた蘇った。
――いい奥さんに助けられているな。
遼一は画面を閉じた。
自分は今日初めて、一つだけ気づいた。
沙耶は何か大きなことを一つしていたわけではない。見えないほど小さなことを、毎日、何十個も片づけていた。
そして自分は、それがなくなった生活をまだ二日しか経験していない。
それなのに、すでに一つ忘れた。
明日は何を忘れるのだろう。
その考えを振り払うように、遼一は冷蔵庫から水を取り出した。
自分が妻を必要としていたわけではない。ただ便利だっただけだ。
まだ、そう思いたかった。
第25話 妻に頼らず仕事を回すために、会社を変えなければならなかった翌朝、遼一が出社すると、昨夜自分で追加した一枚の資料が机の上に残っていた。『この商品を、誰のどんな時間に置くのか』見出しだけなら、以前沙耶が作っていた資料とよく似ている。だが、中身はまだ半分しか埋まっていなかった。三十五歳から五十歳を中心とする既存顧客。仕事を終えて帰宅した夜。休日の朝。来客前。自分のために部屋を整えたいとき。贈答用なら、親しい相手の新居祝いや誕生日。いくつか書いてみたものの、どれもどこか商品企画書らしい言葉で、生活の匂いが薄い。遼一は椅子へ腰を下ろし、しばらくその一枚を見つめた。沙耶へ聞けば早い。その考えは昨夜すでに捨てた。ならば会社で作るしかない。問題は、誰に作らせるかではない。どうすれば今後も会社の中で考えられるようになるかだった。午前九時、遼一は秘書へ内線を入れた。「長谷川部長と商品企画の高田課長、それから営業から一人、EC担当から一人。十時に小会議室を押さえてくれ」『広告代理店も呼びますか?』「今日はいい。社内だけでやる」『承知しました』通話を切り、遼一は資料を閉じた。以前なら、各部署から上がってきた情報を自分がまとめ、最後に沙耶へ見せる。それで十分だと思っていた。会社の中で作れない部分を、家庭で補っていたのだ。しかも無料で。その状態を「自分は仕事ができる」と思っていた。認めたくないが、そこはもう認めるしかない。十時。小会議室に集まったのは、マーケティング部長の長谷川、商品企画課長の高田、法人営業の女性課長・野村、EC担当の三十代男性・石井だった。全員、急な招集に少し戸惑っている。遼一は昨夜作った一枚を配った。「今日は広告案を決める会議じゃない」長谷川が資料を見る。「これは?」「新
第24話 元妻がいなくなって初めて、会社の会議が噛み合わなくなった神崎ライフスタイルの新商品発表会まで、残り三週間。午前九時から始まった広告戦略会議は、一時間二十分を過ぎても結論が出ていなかった。遼一は会議室の正面で腕時計を確認し、目の前の資料をもう一度めくった。新商品は、ホテル客室や一般家庭向けに展開する高価格帯のルームフレグランスシリーズだった。香りそのものは悪くない。開発には一年近くかけている。容器のデザインにも金をかけた。大手百貨店二社との商談も進み、自社ECだけでなくホテルのアメニティ展開も視野に入れている。会社としては、今期後半の柱にしたい商品だった。だからこそ、広告で失敗するわけにはいかない。「もう一度整理しましょう」遼一が言うと、広告代理店の担当者がパソコンを操作した。大型モニターへ、三種類のキービジュアルが映る。一つ目は、若い女性モデルを全面に出した華やかな案。二つ目は、白を基調に商品だけを見せる高級感重視の案。三つ目は、ホテルの客室を背景にしたライフスタイル提案型。どれも悪くない。だが、どれも決め手がない。「葉山さんは一案目を推すんですよね」マーケティング部長の長谷川が確認すると、莉奈が頷いた。「はい。SNS広告まで考えるなら、一番止まってもらいやすいです。商品だけの静物だと、高級感は出ても拡散は弱いと思います」「でも既存顧客は四十代以上が中心だ」営業本部長が言う。「若い女性へ振りすぎると、今までのブランドイメージから浮かないか?」「だから今回は新規層を取りにいくんじゃないんですか?」莉奈はすぐに返した。「既存顧客だけ見ていたら市場は広がりません。二十代後半から三十代前半の女性を取るなら、今までと同じ見せ方では駄目だと思います」言っていることは間違っていない。遼一も、当初はその方向を支持していた。しか
第23話 私の企画が、七年ぶりに採用されたホテル・アステリアの改善案を正式に提出する日の朝、沙耶は目覚ましが鳴る十分前に目を覚ました。眠れなかったわけではない。むしろ前夜は珍しく早めに布団へ入った。それでも体のどこかが今日を意識していたらしく、目を開けた瞬間から頭の中に資料の構成が浮かんだ。由香の家へ来てから何度も使ったダイニングテーブルには、昨夜のうちにまとめておいた書類が置いてある。最終案は二十八ページ。最初に考えていたより、ずっと地味な内容になった。大規模改装はしない。若者向けへ一気にブランド転換もしない。新しいレストランを作るわけでも、有名人を呼ぶわけでもない。まず、今いる客を取りこぼさない。宴会、宿泊、レストランを別々のサービスとして売るのではなく、客がホテルを使う目的ごとに案内をつなぐ。法事。同窓会。家族の節目。親を連れた食事。地域へ戻ってきた人が、複数の用事を一か所で済ませられるようにする。そのうえで、現在の常連客から次の世代へ利用をつなげる。派手ではない。しかし今の沙耶には、それが一番アステリアに合っていると思えた。キッチンへ行くと、由香がすでにコーヒーを淹れていた。「おはよう。顔、固いよ」「そんなに?」「面接受けに行ったときより固い」沙耶は冷蔵庫からヨーグルトを出した。「今日は自分で考えたものを採るかどうか決められるから」「面接だって自分を採るか決められてたじゃん」「それとは違うよ」「何が?」沙耶は少し考えた。「面接のときは、私自身が評価されてる感じが強かった。でも今日は、私が考えたものが使えるかどうかを見られるでしょう。だから……」「自分と仕事を分けられる?」由香に先を言われた。沙耶は少し驚いて
第22話 「やっと仕事に戻ったんですね」久世蒼士へ渡す修正版の資料を仕上げたのは、日付が変わる少し前だった。沙耶は最後のページまで見直し、ファイル名をつけて保存した。『ホテル・アステリア現状分析_改訂版』いったん送信画面まで進み、そこで手を止める。今回は相川を通して久世ホールディングスへ送ることになっている。直接蒼士へ連絡するわけではない。それなのに、提出ボタンを押すだけで妙に緊張した。会議の最後に言われた言葉が残っている。――自分で出した結果まで、先回りして小さくする必要はないでしょう。資料を直すとき、その指摘を何度も思い出した。十一室の宿泊予約についても、以前なら「一件のみであり偶然の可能性も高い」と冒頭から予防線を張っていただろう。今回は違う。『試験運用一件目では、宴会付随の宿泊見込みが五室程度から十一室へ増加した。案内経路を整理したことで既存需要を取りこぼしにくくなる可能性が示された。ただし、現時点では一例のため継続検証が必要である』結果は結果として書く。そのうえで限界も書く。誇張もしない。縮めもしない。たったそれだけのことが、沙耶には思った以上に難しかった。「まだ送ってないの?」ソファでテレビを見ていた由香が、画面から目を離さずに言った。「今送る」「十五分前も聞いた」「最終確認してたの」「十二回目?」「今日は八回くらい」「改善したねえ」完全にからかわれている。沙耶は苦笑して送信した。「送った」「お疲れ」「……うん」「何、その顔。公開告白でもした?」「仕事の資料送っただけ」「じゃあ寝な」「そうする」そう言いながら、沙耶はすぐにはパソコンを閉じなかった。送った以上、もう自分の手から離れた。
第21話 七年ぶりに戻った業界で、私は彼と出会った久世ホールディングスとの打ち合わせを二日後に控えた夜、沙耶は資料の一ページ目を十二回目まで直していた。由香のダイニングテーブルにはノートパソコンとホテル・アステリアの資料が広がり、いつの間にか仕事用の場所として定着しつつある。最初は遠慮して毎晩片づけていたが、由香から「朝また全部出すなら端に寄せとけば」と言われて以来、食事のときだけ資料を重ねて椅子の横へ置くようになった。画面に表示されている一文は、前回から変わっていない。『ホテル・アステリアの問題は、魅力がないことではない。すでにある価値が、客の目的に沿ってつながっていないことである。』問題は、その次だった。十一室の宿泊予約が入った。宴会と宿泊の情報共有を変えたことで、少なくとも一件は取りこぼしを減らせた。レストラン利用者への聞き取りでは、若い世代がアステリアを嫌っているというより、「自分が使う場所として思いつかない」という反応が多かった。そこから、『設備別の販売から、利用目的別の提案へ』という方向性までは見えている。だが、それだけでホテルが立て直るとは言えない。「また消した」キッチンから由香の声が飛んできた。沙耶は驚いて振り返った。「見てたの?」「さっきからキーボードの音が、打つ、止まる、消す、打つ、止まる、消す、なの。聞いてるだけで分かる」「怖いな」「何に悩んでるの?」由香はマグカップを二つ持ってきて、一つを沙耶の横へ置いた。中身はコーヒーではなく、温かいほうじ茶だった。「ありがとう」「どういたしまして。それで?」沙耶は画面を見ながら答えた。「明後日の打ち合わせ、相手が大手だから」「久世なんとか?」「久世ホールディングス。ホテルだけじゃなくて、不動産もレストランもやってる。昔から業界では有名だった」「偉い人が来るんだ
第20話 ホテルが売っていたものを、お客様は欲しがっていなかった十一室の宿泊予約が入った翌日、沙耶は嬉しさをいったん脇へ置くことにした。数字が動いたのは事実だった。しかし、一件うまくいっただけで「改善策は成功です」と言ってしまえば、それまで何度も新しい施策に振り回されてきたアステリアの現場と同じことを繰り返す。なぜ十一室増えたのか。本当に共有方法を変えたことが理由なのか。もともと宿泊する予定だった人が、たまたまアステリアを選んだだけではないのか。確かめなければならなかった。午前中、沙耶は森川から同窓会幹事とのやり取りを見せてもらった。もちろん個人情報に触れない範囲だが、宿泊案内を送ったあとの反応は分かる。「最初は五室くらいって話だったんですよね?」沙耶が尋ねると、森川は頷いた。「幹事さんが把握してたのが五室です。でも案内を参加者全員に回してくれて、それを見た人から個別に連絡が来ました」「何が決め手だったか聞きました?」「二人だけですけど。片方は『宴会終わってそのまま部屋に上がれるなら楽だから』って。もう一人は『朝みんなで食べられるならこっちでいい』って」「料金は?」「安いとは言ってなかったです。駅前より少し高いですし」それは沙耶にとって重要だった。安くしたから取れた十一室ではない。利便性が伝わったから選ばれた可能性がある。「宴会会場と宿泊場所が同じこと自体に価値があるんですね」「まあ、飲む人には大きいでしょうね。駅前まで移動しなくて済むし」「でも、それって今まで積極的に案内してなかった?」森川が苦笑した。「聞かれたら答えてました」「聞かれたら」「はい」客が知らなければ、存在しないのと同じだった。沙耶はノートへ書き込む。『利便性はある。伝えていない。』それだけなら広告の問題にも見える。だが、







